私はラジオ好きだ。最近はワチャワチャした番組が多く辟易としているが、それでも家事をしているとき、食事をしているとき、部屋にはよくラジオが流れている。
先日いつものように聞くともなく聞いていると、とある番組で、一軒のカフェの紹介が始まった。店内に蓄音機があるとのこと。アナウンサーさんがお店に出かけ、現場をリポート。二台の貴重な蓄音機(1912年製、1926年製)で実際にSPレコードをかけ、聴き比べをするという。選ばれた曲は、オペラ『カルメン』の「ハバネラ」。まず流れたのは、1912年製シレナ蓄音機によるフランスの歌い手エマ・カルヴェの歌唱。録音は1907年。エマ・カルヴェはアルベニスより2歳、グラナドスより9歳年上だ。パリ時代の二人が当時の大スター、エマ・カルヴェの歌を聴いていてもおかしくない。それだけで何だか嬉しくなる。次に流れたのは、1926年製クレデンザ蓄音機によるコンチータ・スペルビアの歌唱。録音は1927年。「カルメンといえばこの人、といわれた歴史的にも有名なスペインのメゾソプラノです」と、マスターがコメントされている。コンチータ・スペルビアをご存知?いや、かなりお詳しい?コンチータ・スペルビアのSPレコード現物がお店にある???すっかり心を持っていかれてしまった。このお店に行かねば…。
数日後、偶然ぽっかり時間が空いた。今だ!目指すは神保町。駅にほど近いビルの地下に目的のカフェがあった。すっぽりと音に包まれる空間。昔のちょっと敷居高げなクラシック喫茶ではない。学生さんらしき若者グループ、クリームソーダを写メしながら楽しそうにおしゃべりする女子二人連れ、みんな各々楽しんでいる。メニューにはお店こだわりのコーヒーがずらり。心惹かれたが、今回は初めてのお店に敬意を表してオリジナルブレンドを注文。ラジオを聴いたこと、コンチータ・スペルビアの名前が出て驚いたこと等々をお伝えし、店内をゆっくり拝見する。正面には風格ある二台の蓄音機、木目が美しい。壁一面にびっしりと並ぶSPレコードは、ジャンル別、アルファベット順、男女別等、きっちり整理分類されている。マスターのお人柄が伝わるようだ。思わず我が目を疑うような超お宝級のカザルスの録音もあった。
「コンチータ・スペルビアが歌うファリャ『七つのスペイン民謡』をおかけしますよ」なんと!マスターがSPレコードを持ってきてくれた。1930年、バルセロナでの録音。伴奏はフランク・マーシャル、グラナドスの弟子、アリシア・デ・ラローチャの師匠に当たるピアニストだ。驚く私をよそに、マスターはクレデンザ蓄音機のハンドルをゆっくりと回し、針を置いた。流れ来るコンチータ・スペルビアの声。ゆったりとしたテンポ、練り上げられた歌唱…。何よりも素晴らしいのは、その「音」だ。素朴で深く、温かい。人間の「声」がもつ温度、ぬくもりを感じさせてくれる。あたかもそこにコンチータ・スペルビアその人がいるかのように…。えもいわれぬ想いに包まれ、時空がどこかに飛んでいった。
コンチータ・スペルビアの歌唱は、いわゆる癒し系ではない。時に強く、エキセントリックでさえある。しかし、あの蓄音機から聴こえて来る彼女の歌は、そんな次元を超越し、人間の声の真の豊かさを伝えてくれた。
マスターにお礼を申し上げ、帰途につく。心地よい余韻に包まれ、全身がゆるみ、ほーっとリラックスしている自分に気づく。音による癒し、声による癒し…。歌うなら、そんな歌を歌いたい、と、あらためて思う。
こちらのお店です。