作曲家I先生が旅立たれた。京都在住の友人が知らせてくれた。あまりにも突然の訃報だった。音楽に、平和に、揺るがぬ信念をもち、作曲に生涯を捧げられたI先生。教育者としても多くの優秀な後進を育成。プライベートでは、純粋で心やさしく、照れ屋でちょっぴり不器用。ユニークな個性で周囲に愛されていた。
昔々、同じ建物の上下階に住んでいたことがある。今で言う音楽専用マンションの走りのような物件。部屋は狭いキッチンとユニットバス付きのワンルーム。収納スペースは小さなクローゼットしかなく、部屋が物で溢れかえった。I先生はそこにフルコンサートグランドピアノを持ち込んでいた。部屋は間違いなくピアノでいっぱいだ。どこで寝ているのか?ピアノの上?まさか!じゃあピアノの下にもぐりこんで???大いなる謎だった。日曜午後になると先生の十八番!ショパン「幻想ポロネーズ」が始まる。フルコンの音量は凄まじい。いくら防音の部屋でも筒抜けになる。曲の後半、これでもか!と繰り出されるフォルテシモの熱いパッセージ!建物全体が揺れる。下階にいる者は何も聴こえない。まけじと歌ったり、当時ハマっていたワグナーの楽劇のLPを大音量でかけたりするが、フルコンにはかなわない。遂に諦め、いっそ掃除でもするか、ということになる。以来、この長い年月、私にとっての幻想ポロネーズはI先生のピアノそのものだった。
先生はお料理もよくされていた。得意メニューは「ビーフストロガノフ」。時々私たちにもご馳走してくれた。「お肉は、買ってすぐ、ではなく、ちょっと寝かせてから使うのがコツです」とご自慢のレシピを解説しながら、遠慮なく食べる私たちをニコニコ眺めておられる。「先生、美味しい!」なんて誰かが言おうものなら、もう満面の笑み!
やがて、卒業、就職、転居、留学…みんな散り散りになった。
それから約35年。ある日突然FaceBookでメッセージが届いた。「お久しぶりです。覚えていますか?」なんと!I先生だ。以来、FBでの交流が始まった。先生は今も関西在住。作曲に、楽譜・CD・書籍蒐集に、そして得意のお料理に、充実の日々をお過ごしのご様子。音楽への情熱も平和への想いも昔とちっとも変わらない。
2021年春、演奏会のご案内をいただいた。先生のピアノ作品が東京で演奏されるという。時はコロナ禍真っただ中。「このご時世だからご無理なくね~」とメッセージが添えられていた。演奏会の類はすべてお断りしていたが、これは行かねば!と決心。厳重にマスクをし、緊張して電車に乗り、会場に向かった。開演前、客席でキョロキョロしていると…いた!I先生だ。「先生」と声をおかけすると、「やぁ!」と右手を挙げてニコニコ。まるで昨日の続きのよう。ほどなく開演。終演後は、先生の周りに音楽関係の方が沢山集まり作品をお祝いされていた。幻想ポロネーズとビーフストロガノフがご縁の私はちょっとご遠慮、遠くから会釈だけして失礼した。約35年ぶりの短い再会。これがお目にかかる最後の機会になった。
体調がすぐれず入院されてからも、FBに音楽番組情報や病院食をアップ。I先生らしいなぁ、と拝見していた。きっと今は、空の上で、音楽の森を、思索の森を、お料理の森を、思う存分闊歩しておられるに違いない。「やぁ!」あの人懐っこい笑顔が目に浮かぶ。I先生、心温まる想い出をありがとうございました。
お別れになった演奏会
池上敏作曲『ウォーニング2019 a,b』 2021年5月27日@豊洲シビックホール
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