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第2期 連続講座「声の力を学ぶ」第5回   

元NHKアナウンサー室長山根基世さんが主宰される「第2期『声の力を学ぶ』連続講座
第5回を聴講させていただいた。
★第1期のレポートはこちら ⇒ 第1期『声の力を学ぶ』連続講座

今回の講師は、法相宗大本山興福寺貫主、帝塚山大学特別客員教授の多川俊映先生。
「声-仏教の立場から-」と題し、唯識仏教の歴史、教え、末那識と阿頼耶識、仏教における聞くこと-聞法-の意味などについてお話しくださった。

昨今、仏教音楽がちょっとしたブームだ。声明のコンサートが開かれたり、チベット仏教の勤行のCDが売られたりしている。本来、声明は捧げられるもの。コンサートにはちょっと違和感がある、と、仰られた。声明の「明」とは、インドでは学問の意。明には五つのカテゴリー(声明・工巧明・医明・内明・因明)がある。

唯識仏教は、4世紀~5世紀頃、インドで成立した大乗仏教のひとつであり、唯識とは、あらゆることを心の要素に還元する考え方である。インドへ渡った玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師!)が中国に持ち帰り、7世紀~8世紀頃、遣唐使によって日本にも伝えられた。

お釈迦様に近い時代の仏教における心の構造は「六識説(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)」とされていたが、唯識仏教においては、六識説に「末那識」「阿頼耶識」を加えた「八識説」とされた。阿頼耶識の阿頼耶:アラヤとは、アーラヤ(持っている・蔵・倉庫)という言葉を音写したもの。ちなみに、ヒマ(雪)+アーラヤ(持っている)=ヒマアラーヤ ⇒ ヒマラヤという山の名前が生まれたそうだ。

末那識とは、意識下における自己中心性、覚醒している心の裏側、自己愛の囁きであり、阿頼耶識を不変な自我と誤認する。一方、阿頼耶識とは、種子(しゅうじ):行動情報、有根身(うこんじん):肉体、器世間(きせけん):自然・環境を認識対象とする深層心理、深層にある自己基盤である。人間のあらゆる行為は阿頼耶識に送りこまれる。

仏教では、古来、「見仏聞法(けんぶつもんぽう)」「声聞(せいもん)」「聞持(もんじ)」「聞思修慧(もんししゅうえ)」に大きな意味があるとされてきた。お釈迦様に会い(見仏)、その声と教えを聞き(聞法・声聞)、聞く耳を持つ(聞持)。すなわち、聞き、思いを巡らせ、実践を修め、智慧を得る(聞思修慧)。「聞く」ことが智慧になる。説く人も聞く人がいるから説くことが出来る。聞くこと:聞法の大いなる意味。

と、ここまで書いてみたが、深遠なる仏教の教えを私の拙い文章で纏めきれるはずもない。より学びたい方は、多川貫主様の多数のご著書をお読みいただきたい。

講演終了後、山根さんがより身近な視点から質問を繰り出された。

見仏聞法(けんぶつもんぽう)とは、ただひたすら「聞く」ことが修行、という意味だそうだ。とにかく聞く、聞いて大事なことを記憶する。確かに、日常のなかで、話の聞けない人がいる。こちらが何か言いかけると、あ~!それはこうでああで、ああなってこうなって、と、こちらの話を最後まで聞かず、内容がずれていることにも気づかず、夢中で自説を述べ立てる。知ったかぶりをしたいのか?質問されるのが恐いのか?

大勢の弟子がお釈迦様のお話を聞いた。ご説法の様子は師子吼(ししく)と表現される。では、そのお声そのものはどんな感じだったのだろう?低音の美声?明るく澄んだ声?まさかのハスキーボイス?以前、とあるスポーツ選手が外国チームに移籍してほどなくその国の言葉でインタビューに答えるのを聞き、感心したことがある。ものすごく勉強したんだろうなぁ。偉いなぁ。ただ、彼の声は意外なほど甲高くカラカラしていた。これでグッとくる深い声なら、すぐにファンになったのに!(笑)

「法に依って人に依らず」という言葉がある。しかし教えは人から人へ伝えられるもの。人から人へ伝えるには「声」が必要である。と、見事に「声」に着地して、第5回が終了した。

★「声」を基軸とした多彩なテーマ、多士済々の講師陣、稀に見る貴重な講座です。
今期から、毎回、単発受講生の募集も行われています。
ご興味のある方は、ぜひこちらのページにアクセスしてみてください。
声の力を学ぶ 連続講座

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by Megumi_Tani | 2019-08-09 20:45 | 講座/セミナー | Comments(0)

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